ショーペンハウアーについて
本は好きではないけど、読まなければいけない。いわゆる必読書と呼ばれる本も最小限で済ませたい。手っ取り早く神髄のみを得たい。いかにも若者的な、生き急いでいたわたしが見つけたのが『読書について』だった。書名の通り読書について書いた本なのだが、これが面白い。頑固ジジイがぶつくさ言ってるだけなのに妙に説得力がある。哲学者の書いた本を読んだのはこれが初めてで、入口に初めて触れた感動もあってか何度も何度も読んだ記憶がある。
この『読書について』だが、これはショーペンハウアーが晩年に書いた『余禄と補遺』というエッセー集から一部抜粋したものである。ショーペンハウアーという人物は、若い頃はヘーゲルの影に隠れた世間的には痛いヤツだった。ヘーゲルの講義の時間に合わせて自分の講義を開こうとした有名なエピソードからは、彼がいかにヘーゲルを意識していたか、そしていかに頑固な人物であったが読み取れる。ちなみにこの時は人が集まらなすぎて解散したそうだ。主著は誰からも注目されず、贔屓にされていた大著作家ゲーテからの反応も薄かった。彼は長い間無名だった。しかし晩年に書いた『余禄と補遺』が大ヒット。厭世的でありながら鋭い言説が時代にマッチしていた。その影響で若い頃に書いた主著『意志と表象としての世界』も初めて注目されることになる。こうして彼の人生は大逆転し、円満のままこの世を去った。
現代はというと、専門家からは大して注目されてないのが現状である。哲学史を俯瞰で見た場合、彼は傍流であり、カントやヘーゲルといった主流派からは外れている。またそもそもの理論がオカルティックであやふやなうえに発展性にも乏しい。晩年に注目されたといっても、厭世的な時代の雰囲気にマッチしていたのと、ヘーゲルへのカウンターとして一時的にバズッただけであり、多くの専門家は静観していた。一応ニーチェが影響を受けた代表格として名前は挙がる。確かに節々に似た部分はある。ただ所詮節々であるから大々的には取り上げられない。それと彼の思想の核心である「意志」が科学によって見破られたことで、新鮮さと考察の必要性を失ったこともある。「読書」だの「幸福」だの「自殺」だのといった面白そうな部分だけを抽出したエッセー集だけが持て囃されているのが現状だ。
馬鹿蔑視
ショーペンハウアーは女性蔑視なところがあるともよく言われる。これは確かにいたる箇所にみられるが、特別吊し上げるのではなく、馬鹿蔑視のパターンのひとつとしてあるという感じだ。
カントは理性の限界を示したが、ショーペンハウアーは人間という種の限界を示した。
彼の文体は、平易な言葉遣い、豊富な比喩と引用、そしてくどいほどの馬鹿分析によって構成されている。
これこれはこうである。なぜならこうだから。まるでこうである。〇〇もこういってる(引用)。でも馬鹿はこう考える。なぜなら馬鹿はこうだからだ。まるでこうである。〇〇もこういってる(引用)。
といった風に本筋から外れてくどくどと馬鹿を叩くパターンが多い。そして言葉が強い。批判というより罵倒。およそ哲学書には似つかわしくない強烈なワードが飛んできて思わず笑ってしまう。馬鹿は精神病院に行けみたいなことを本当に書いている。
気性の激しさ。人間味があるのは確かだ。しかし主著までこの調子では、普段の彼の振る舞いも容易に想像できる。そしてそんな人間がいくら正論を吐いても誰からも相手にされなかったのは至極当然のことと思う。
彼の女性蔑視は、彼が強烈に叩く馬鹿グループのなかにたまたま女性が含まれていただけにすぎない。これは当時女性が抑圧され知性が発揮できなかった時代のせいでもある。ただ上にあげた彼の文体上の特徴のせいで、長々と語ってしまい、数撃ちゃ当たる寸法で、たまたま後世にも通用する一句が生まれてしまった。そして女性蔑視的なレトリックと哲学者という肩書を持った人間が語ったという事実とともに、「女性蔑視的な哲学者」と呼ばれるようになってしまったのだと思う。とにかく女性が憎いというわけでもないし、彼自身モテない男だったというわけでもない。
ショーペンハウアーの思想
『読書について』でも繰り返し現れる
「カントを読め、あとヘーゲルはカス」
というのが彼のお決まりの文句で、ここから読み取れるように、彼の思想はカントを敷衍し*1、ヘーゲルとは対立する思想であった。
主著『意志と表象としての世界』での「意志」とは、これは現代的にいうと遺伝子に近い。生物学的な視点ではなくて(むしろそうした見方を否定。プラトンのイデア的な見方)、ショーペンハウアーは哲学者としての立場から見て、世界を支配する法則性があることに着目した。その意志を最も直接的に観察(直感)できるのは自らの身体(頭を除く)である。身体はわたしたちの思考を無視して稼働している。
「腹がいてー、なおれ!」
と念じても身体は言うことを聞かない。植物や動物の機構も同様の法則に支配されているようにみえる。直感を重視していた彼は、人間も植物も動物も同一の意志に支配されているのは自明で説明不要なリアリティを持っていると主張した(意志はひとつとした点で遺伝子とは異なる)。つまり『意志と表象としての世界』という書名が意味するところは、万物の根拠である意志(遺伝子)が表象する世界といったくらいの意味である。
啓蒙全盛期の時代に、「この世界は終わってんな~」的な言説が受け入れられるはずもないし、利己的な遺伝子の働きについて説明された現代でも「だからなに?」という感じだ。ただこの世界を厭世的にとらえることに関しては、現代では大部分の人たちが合意できるのではないかと思う。嬉しいことを挙げていくより、つらいことのほうがより容易にしかもより大量に挙げていくことができるだろう。基本理解が共通しているからこそ、彼の基本理論など知らなくてもその実践理論が妙に納得できる。
ショーペンハウアーの考えはこうだ、「カントの基本理論(純粋理性批判、それも初版だけ)は認める。カントが物自体と呼んで不可知とした領域に明らかなものがある。意志だ。世界の裏には意志のどうしようもない働きが常にあり、人間はそれには抗えない。それに対応するには、意志の及ばないほどの精神的高みに昇るか、ほどほどに付き合っていくかしかない」
精神的高みというのは、ショーペンハウアーの考えをわたしなりに言い換えた言葉で、要は達観しろということだ。ショーペンハウアーは身体は意志の支配下といっても、頭はそうではないという。頭のほうから身体から遠ざかるよう計らうことで、身体(意志)が生む苦痛から解放されると考えた。究極的には仏教のように万物(意志)と完全に一となることが理想だ。といっても理想は理想でしかない。結局はショーペンハウアー自身がその人生で実践したように、哲学することや芸術に触れること、あるいは宗教活動によって、たとえ一時的であろうとも意志から解放される時間を持ち、たびたび訪れる苦痛に関しては最小限に処理していくのが現実的な答えとなる。ショーペンハウアーのエッセーの多くはこの最小限に処理する方法、いわば処世術についでである。
クレイジージジイ
長々と書いたけど、伝えたいのはこの人の思想背景は現代人と良く似ているということなんだ。複雑な世の中、心持ち。なんだかモヤモヤした気持ちが常にある現代社会で、ショーペンハウアーみたいな狂気的な人間は救世主だ。彼が世の苦痛をバッサバッサと切り捨てていく様はカタルシスすらある。
なんか変な爺さんが喚いてるなくらいの感覚で読むといいかも。最初はやはり『読書について』がいいよ。薄いから一日数ページでもあっという間に読み終わる。これからいろんな本を読んでいこうと考えている人におすすめだよ。基本的に主著以外ならなんでもいいんだけどね。気休みなんだから。
*1:実際カントだけ読んでおけば彼の考えは大体わかる。彼の著作は枝葉のほうに価値がある